世相を眺めると
ブログ更新6回目。
みなさんこんにちは。
1.世の中の意識
ズバリ申し上げたいことは、「権利と義務」のアンバランスな方が、多くなって来たように感じる。
権利ばかり主張して、ご自分の負っている「義務」を忘れている人たちである。
職場で、有給休暇を取得する・消化するために、権利の行使として休む時、周囲への配慮が足りないと、
「勝手に休みやがって・・・」と、思われてしまう。
休む前に、「今この作業が途中なのですが、取引先から作業の進捗の問い合わせがあった場合は、
『●月□日に、原案をお届けします』と伝えておいていただけませんか。」と、
同僚に伝えておけば、大きな問題には発展しない。
この一言は、職場・同僚への配慮とも言うことが出来るが、本質的には、休暇をとるという権利の行使の対極にある「義務」を果たすことに他ならない。
2.権利と義務のアンバランス
権利と義務のアンバランスは、職場に限ったことではない。
政治資金規正法の網の目をくぐろうとして、帳簿に記載しないお金を作ろうとした事件は、
大きなお金を集めた場合の、「義務」を果たしていないことが根底にある。
自由に使えるお金をたくさん持ちたいというのは、冬眠前の熊が、出来るだけ餌を食べて、
寝て暮らせるようにしたいという、「動物本能」そのものではなかろうか。
動物には、「法律」は無い。人間には法律がある。政治家は、司法・立法・行政の三権分立のうち、
立法と行政を担っている。
その政治家自らが、事件を起こし、司直の手による捜査を受けるとは、冬眠前の熊の状態そのものである。
やりたい放題で、「見つからなければ、丸儲け」という魂胆が、丸見えである。
3.冤罪事件
12月27日判決が出た「大河原化工機の裁判」も、権利と義務のアンバランスな結果である。
警察と検察が敗訴である。
容疑を掛けられて収監されていた方のお一人が、「癌」の診断があったにもかかわらず、拘束中に亡くなった。
「病院に行って受診するという権利の行使を、司直が恣意的に制限した」ために起きた、「悲劇」である。
癌という一刻を争う病に対して、司直も裁判所も、血も涙もない判断である。
検察の人事評価で、「何人起訴する」というノルマがあったとは思いたくないが、
そのような匂いが濃厚な判断である。
検察とは、あくまでも客観的なデータ・資料から事実関係をつかむことが、重要な任務である。
4.まとめ
底流に、「明らかに人間としての物の見方を狂わせている何か」がある。
「優しさと愛情の欠如」である。
法律は、書いてないことは判断しない。
その書いてない隙間を埋めるのが人間の智慧である。
人間が完全なら、法律は完全であろう。
不完全な人間がやることには、抜け穴がある。法律は、不完全なのである。
霞ヶ関(役人の街)も、永田町(政治家の街)も、人間としての良識を取り戻していただきたい。
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